ゴー宣DOJO「そもそも保守とリベラルの差って何だ?」
公論サポーター・ともピーさんの感想をご紹介します!
笹先生も言っていましたが、森先生は話している内容としては保守と言ってもよいのではないかなといつも思いますが、自身はリベラルに立脚していると主張されていてたぶん右翼的な陣営には自分は属していないことを強調されているのかなと。
天皇の存在は全体主義を牽制するものともなるので全体主義的、ファシズム的な雰囲気を避けたいがためにリベラルを名乗っているとしたらそれは合点がいきますから、そうなのかなと勝手に想像しています。
ゴーさんのリベラルは価値、保守は態度というお話も言葉を定義付ける話として興味深かったです。リベラルの欠点は日本を超えて世界大の正義あるいは普遍的な人間の正義を言い出すのはよいけど国家を越えての普遍的な価値と言ってもその輪郭が溶解していてリアリティがなさ過ぎることかと。
今回の議論を聞いて、自分自身が保守だと確信できたら保守であると名乗ろうかな、と思っていましたが今回もやはり自分は保守だと言うことができるところまでには至らず、かと言ってリベラルでもない。結局いままで通りただのよしりん先生の作品が好きな一般庶民ということでいきます。
最近はリベラルよりも保守が人気があるという世の中の流れみたいなものがあるのは知っていますが保守だからかっこいいというような感覚もないままここまできています、それがいいとか悪いとかの話とは別です。
かと言ってリベラルを名乗ってみても同様に自分の中であまりテンションが上がらないというか俺ってリベラルなの?という疑問が湧き上がってきてどうにも居心地が悪くなります。
おそらくこの先も自分が保守なのかリベラルなのかわからないまま、蚊帳の外側から眺める感覚が続くのだと思います。でもよしりん先生のファンの時点でだいぶ保守よりの人だという自覚はありますが、たぶん自分はこの場で思想し続けたいだけなのだろうと思います、カッコつけてますね。
よしりん先生は保守とリベラルの言葉としての定義付けのような話から少し離れて、保守というのはどのようなことなのか自身の生い立ちやこれまでの個人主義からの変遷のお話を絡めつつ日本人の感覚的なところのお話をされていて、この話は自分の中にもスッと違和感なく入ってきます。
よしりん先生は保守というものを感覚的に身につけてもらいたいのだと感じました。それは日本人全員がその感覚を持っていたらいいのですが、残念ながら現在は絶滅危惧種的な感じすらあります。DOJOは絶滅危惧種の希少生物の集団に見えます、ここから反転攻勢していきましょう。
一方でリベラルは感覚的に身につけるのは難しい気がしています。世界大の正義みたいなものって何かちょっと壮大すぎるというか気味悪さすらありまして。逆に個人の権利がどうのこうの言ってみても限界感じますし、リベラルの人ってかなり気合を入れて自分はリベラルだと唱えていないとならないような気もして、疲れそうだなって思いもあり。望月衣塑子とかよくあんなに正義面できるなって感心します…疲れないの?って普通に思うんです。言い過ぎですね。森先生もリベラルですし肩に力の入っていないバランスのとれたリベラルの方も多くいるのでそいう方はウェルカムということで。
自分が思想する時に立脚するものは何かと問われたら、よしりん先生が教えてくれたと言っても過言ではない日本人としての歴史的な感覚、日本の歴史の中で醸成された常識的感覚でしょうか。それを呼び覚まさせてさらに強く自分の中に響かせてくれるのがゴー宣をはじめとしたよしりん先生の漫画などの作品群です。
仮に「保守とは何か?」の定義が
書かれた教科書があったとして、
それを丸暗記してテストで100点取ったら
その人は「保守」なのでしょうか?
そうとは言い切れないように思います。
ただの情報として丸暗記しているだけで、
その人の実際の態度や行動は
全然違っているなんてことも
ありうるのではないでしょうか?
だからこそ「保守は態度」ということに
なるのかなと思ったりもしますし、
それだったら本人が自称するかどうかよりも、
他人が見てどう思えるかの方が
大事なのかもしれません。




















